前日パドミニ先生からシヴァナンダのプージャが素晴らしいらしくみんなで行こうとの提案で、
朝6時にリリー先生達と一緒にホテルを出て6:15にパドミニ先生とラムジュラを渡った所で待ち合わせの予定。
が、
なんだかんだと疲れているもので・・・起きたのが6時ちょっと前。
リリー先生にドアをノックされ(各部屋には呼び鈴が付いてますが壊れて音が出ない)慌てて用意するも待たせてしまうので先に行ってもらう事にした。
プージャの始まる時間が6:30で結局ホテルを出れたのが6:15。
急いでうんことハエの道を通り抜け。ラムジュラの橋を渡ります。
当然皆は既に居ません。
の前にシヴァナンダ・アシュラムが何処にあるのかをちゃんと分かっていなかったので、リクシャーが集まっている所にシヴァナンダのメモリアルアーチがあった記憶を頼りにそちらの方へ
するとシヴァナンダ・ヨガ・センターの文字!!
ここかっ!!と入ってみても人の気配がしない。お坊さんが一人川に向かって瞑想しているだけ・・・
すると、その坊さんが気がついて声をかけてくれる。
朝のプージャに出たいという事を伝えるが、お互い片言の英語でのコミュニケーションなのでイマイチ話が噛み合ない。
壁に貼ってあるスケジュールの紙を差して朝のプージャは8時からだよ的な事を言っているので、『出直すよ』ととりあえずそこを出る事に。
とりあえずアーチの所まで行ったら分かるだろうと、行ってみてもやっぱり分からない。
Googleマップを開いて探していると、アイアンガーセンター(リクシャーの停留所、アーチの側にアイアンガー・センターがあります)の昨日とは別のスタッフのオジィちゃんがこっちを見てニコニコ笑っているのに気がついたマヒロ先生は、シヴァナンダのプージャに行きたいと聞くとシヴァナンダはあっちにアシュラムとこっちにセンターと二つあるよと色々説明してくれた。
この時はこのインド人がとても親切で素晴らしい方だと思ったが、後々その見解は見事に打ち砕かれるけれども、詳しくはまたの機会に。。。
山道を少し登った所にシヴァナンダのアシュラムはあります。
此処で良いのか少々不安を持ちながら、敷地内の奥へ進んで行く。
途中お坊さんにプージャは何処でやっているか聞くと丁寧に教えてくれた。
会場へ向かう手前でシヴァナンダでお馴染みの『トランバカン ヤジャーマヘー・・・』と聞こえて来て、改めて此処がシヴァナンダのアシュラムであると確信する事が出来た。
会場の中に入ると祭壇に向かって男性と女性に分かれて並んでいて、それぞれ並びなさいと促された。
タイミング的にはちょうど良かったらしく、これからプージャが始まる所でした。
見るとパドミニ先生、リリー先生も居て、一安心です。
プージャではローテクなのかハイテクなのか、ドラムが電動式で、ドラムを自動でバチが叩く仕組みになっていて、スイッチを入れれば勝手に叩いてくれるようになっていました。
その太鼓と鐘の音の中、厳かにプージャは行われました。
プージャも終わり会場をゆっくり見て回りました。
プージャの祭壇です。
祭壇の横に赤い灰があり、額につけます。
祭壇の入り口上にネオン(?)
前述の『トランバカン ヤジャーマヘー・・・』とマントラを唱えていたのはこの場所です。
皆も参加します。マントラの終わりの『アムリターッ』で柄杓ですくった油を中央の火に皆で注ぎます。
このマントラを繰り返し、マントラの終わりで油を注ぐのを何度も行います。
赤い灰や米を額につける。手首には赤いヒモを巻く。どんな意味があるのかは自分で調べてみてください。
ただ額にこの印が付いている人はプージャをやって来た人だというのが第三者にも分かります。
神様からの贈り物であるプラサード(バナナやお菓子などの食べ物)を頂きます。
それから別の建物へ
奥の祭壇はシヴァナンダ先生がマハーサマディ(ヨギの逝去)された場所だそうです。
マヒロ先生が奥の部屋を覗いていると『入ってい良いのよ』と促され女性信者の方に続いて入っていくと、その女性信者は奥の壁にかけられているシヴァナンダの肖像画に額を付け、深々とお祈りをしていたそうです。
それを見て信仰の深さを感じ、スワミ・シヴァナンダの慈悲深さなどを知っていたマヒロ先生は色んな事を思い、自然と涙が溢れたそうです。
スワミ・シヴァナンダについて簡単に書いておきましょう。
スワミ・シヴァナンダは、1987年9月8日に南インド・タミルナドゥ州でヒンドゥーの由緒正しいバラモンの家系に生まれ、クップスワミと名づけられました。クップスワミは幼少時より、両親の行う礼拝やヒンドゥー賛美歌に興味を示し、また遊行中の聖者や貧しい人々や動物たちに食物や自分の持っているものを施すことに喜びを感じていました。ある日、年老いた足腰が弱い老婆が転んだとき、同年代の子供たちは馬鹿にして笑っていましたが、クップスワミ自身は「私たちはいつか必ず年をとる」こと、「笑ってはいけない。困った人がいたら助けなくてはいけない。」とほかの子供たちに厳しき口調で注意しました。人々に奉仕することに喜びを感じていたクップスワミは、やがて人々を助けるために医学の道を志します。学生時代のクップスワミはいつも、学力がトップで優秀な成績をおさめ模範とる学生でした。同時にスポーツや武術にも興味を示し、専門の教師に剣術を教わります。下等のカーストであるクシャトリヤ(武士階級)の教師から教わったために、同じバラモン階級の人から非難を浴びます。クップスワミはカーストという身分制度で、人々を差別することに、違和感を感じました。
医者になった後には、カーストによる差別や偏見を一切持たず、貧しい人々や弱い人々に分け隔てなく奉仕しました。医療費を払えない患者には、逆にクップスワミ自身がお金や食べ物を患者に与えたそうです。予防医学にも力を入れ、学生時代には既に医学雑誌を刊行したり、26歳の時には医療を必要としているマレーシアのゴム農園の人々のために、採算を度外視した医療活動を行います。マレーシアでも、貧しい人々や苦しんでいる人々のために、たとえ夜中であっても進んで診療して助けました。また体調のよくないサドゥー(修行僧)が診療に来た際も、汽車の切符を渡したりと、多くの施しを行いました。
マレーシアで苦しみや悲しみに暮れる人々に奉仕していく中で、クップスワミはある日、「この世は病気や災難や心配や苦難や悲しみや不幸に溢れていて、この世の幸福なんて儚い。永遠の平和と幸福とは何だろう。」と真剣に考え始めました。そして、自己探求していく中で、意識の純粋さと神性さを獲得し、『平安』と『至福』へ到達することこそが、自己実現であると気づきます。
そして、インドに帰国し、36歳にしてベナレスに出家のため旅立ちます。今までは人々に物を与えていましたが、今度はクップスワミ自身が人々から施しを求めました。時には食べ物がまったく得られないときもあり、また粗末な服だったため冷たい雨でずぶ濡れになったりしましたが、忍耐力を鍛えるために神様から与えられた機会だと感じ歩き続けていました。
1924年、37歳のとき、クップスワミはリシケシュにたどり着きます。ここで、スワミ・ヴィシュワーナンダと出会い、師事します。それからクップスワミは、スワミ・ヴィシュワーナンダからサンニャーシンとしてイニシエーションを受け、グルから聖なる僧衣を授かります。ここから、スワミ・シヴァナンダというスピリチュアルネームを頂きます。それから何年もガンジス河のほとりでプラーナヤーマやアーサナや瞑想、夜明け前の沐浴など苦行を続けました。
もちろん、医療の知識と経験を持つシヴァナンダは、医療慈善を行う施薬所で、医療奉仕も続けていました。食べるものは、配給所からもらった堅くなったチャパティとガンジスの水。部屋には2着のドーティと水入れ容器と毛布しかありませんでした。その毛布でさえ、貧しい巡礼者にあげてしったことがありました。神様が新しい毛布をくださるまで、綿のドーティをまとって震えて眠っていたそうです。
43歳のときには、神聖な神秘体験(サマーディ)をします。後にシヴァナンダがおっしゃた言葉です。『スワルガ・アーシュラムで厳しい修行を続けてから、私は多くの聖者や賢人と会い、神がシュリ・クリシュナという姿で眼の前に現れ祝福してくださいました。』神秘体験以降のシヴァナンダに変化が起こり、これまでずっと拒否していた弟子をとり指導することに着手します。
1932年の45歳時にはシヴァナンダは、最初の布教活動のため、インド各地に旅をします。信奉者や弟子も増え、1936年には現在のアーシュラムでもあるディヴァイン・ライフ・ソサイエティ(DLS)が設立されました。アーシュラムの建設や運営はすべて、世界中の信者からの献金でまかなわれています。スワミ・シヴァナンダは持っているものを惜しみなく、貧しい人々や弟子たちや信者に与えていました。アーシュラムはちょくちょく財政難に見舞われ、多くの人々が出ていかなくてはならない深刻な状況にも陥りました。そんな差し迫った苦難のときでも、スワミ・シヴァナンダは、「人々を追い出してはいけません。神様が贈ってくださったのですから。必要なものはすべて神様が与えてくれます。心配はいりません。」とおっしゃいました。スワミのお言葉通り、翌日にアムリトサルに住むパンナラジーという信奉者が多額の献金をしてくださいました。これには、事務方や多く弟子たちが驚いたそうです。
1949年には、かつてDLSの総長だったスワミ・チダーナンダや、アメリカに渡り教育や福祉に多大な貢献をしたスワミ・サッチダーナンダにイニシエーションを授けます。スワミ・シヴァナンダは、1963年肉体を離れるまでに、300冊もの霊的な本を書き上げました。これまで神秘的な領域で口頭以外に絶対に明かしてはならないとされていた、解脱についても誰にでも理解できるように解説しました。
1950年64歳の時には、13人の弟子たちとともに、全インド・ツアーとして奉仕の旅をしました。インド全国からスリランカまで、8千マイルもの大横断は、役人や一般市民や学生や求道者たちの心を鼓舞し、熱烈な歓迎を受けたそうです。
1953年にはシヴァナンダは、アーシュラムで第1回世界宗教会議が開き、「真理はひとつ、原理はまったく同じです。それぞれの人々は異なった名前で呼んでいます。それなのに、人々は不必要な争いをし、大切なことを見失っています。」と演説しました。
スワミ・シヴァーナンダは、弟子たちに小手先のプラーナヤーマやアーサナや瞑想、ハタヨガのテクニックは決して教えませんでした。クンダニーニを覚醒させる技を求めている探求者には、「病気の人や貧しい人や年老いた人に奉仕しなさい。それにより、純粋になり魂は目覚めます。」と教えました。同時にスワミは、来訪者や弟子や求道者の資質と能力を見極め、瞑想の必要な人・ヴェーダーンタの必要な人など、その人たちの個の魂を伸ばすそういった指導を行いました。スワミ・シヴァーナンダは死ぬまで、休むことなく、人々を導き、愛し、奉仕し、楽しませました。
1963年の初め、スワミはご自身が肉体から離れる日が迫っていることを意識します。マハーサマーディについての度々の言及、出家希望者に前もってイニシエーションの日時を伝えたこと、シヴァの礼拝時に何か起きること、今の内にききたいことをたずねるように指示したこと、欲しいものがあったら今の内に言っておくようにとおっしゃったことなど。スワミの言葉の奥にある意味は、多くの弟子や求道者たちは気づいていました。
6月24日には、左半身が麻痺し意識が遠のき、本を書くことができなくなりました。そのため、弟子にスワミ・シヴァナンダの言葉を書きとらせました。
スワミの最後の言葉は、『本当の幸せは、個の意識が神様に融合したときに来ます』でした。7月14日、高熱で横たわるスワミ・シヴァーナンダは、ガンジス河の水を口に含み、肉体を離れ、本来そうであったパラマートマ(神)に還元しました。スワミ・シヴァナンダの教えは、次のお言葉に集約されます。『奉仕しなさい、愛しなさい、与えなさい、清らかになりなさい、瞑想しなさい、悟りなさい』今もスワミ・シヴァナンダの教えは、世界中の人々に実践され、霊的向上のためのインスピレーションを与え続けています。
*参考文献:『シヴァーナンダ・ヨーガ』成瀬貴良・編訳(善本社)
まだまだ朝です。これからナーダ・ヨガの練習があるので、急いでホテルに戻ります。